アウトプットが大事なのは知っているんだけどインプットばかりしてしまう、これってなんで?

インプットするのは流れに取り残されたくないから。

 

そもそも今の時代は情報化社会だ。インプットをする機会はここ10年でめちゃくちゃ増えたのではないだろうか。 Twitter、YouTube やまとめブログ、オンライン授業など、タダで色々な情報を集めることができる。自分もよく機械学習などのことを知りたい場合は 論文を読み漁るというよりかは YouTube などで大まかに全貌を知って終わりのことが多い。

 

とはいえ、世の中で成功している多くの人を見ると、基本的にアウトプットを重要視していることがわかる。インプットだけではお金にならないのだ。それはみんな分かっている。では、なぜアウトプットを重要視することができないのだろうか

 

「研究者あるある」なのが、他の人の論文を読んでばかりで、自分の論文原稿の執筆に全く手が進まないということだ。というのも、研究者は常に最新の情報を把握しておかなければならないと考えていて、そうでもしなければ自分は最先端をから取り残されてしまうような不安に駆られてしまうのだ。また人の最先端の研究を読んだりすることは、非常に刺激的で楽しい。 あと人の研究の穴を探してこれは不十分だとか突っついているのは、自分が正しい気分になって満足するのだ。

 

とはいえ論文の出版数は年々増加傾向にあり、どんどん最新の関連情報を網羅するのが難しくなってきているのは誰もが感じとっている共通の事実であろう。ここで気を付けなければいけないのが、単純に最新情報だけを追い求めようとしてしまうと、インプットだけで精一杯になり、アウトプットに時間を割くことができないというジレンマなのだ。これは研究者に限った話ではない。流行に敏感な若者だって、昔に比べたら情報の取り入れられるルートがかなり多様化していて、何が流行っているのかなどを感知するのがもっと大変になってきているような気がする。

 

インプットとアウトプットのバランスを考える必要があるのは間違いないだろう。まず大前提として、使える時間を考えてみると、インプットとアウトプットはトレードオフの関係にあると言っていい。インプットに時間を使いすぎると、アウトプットのための時間がなくなってしまうし、アウトプットばかりに気をとられるとインプットができず流行に乗り遅れてしまう。数学的な問題に置き換えてしまえば、それぞれにどれだけの重みづけをすると最適になるのかという最適化問題になるのである。またインプットとアウトプットは、両者ともに量と質を考えねばならない。

 

特に大事なのはインプットの情報の取捨選択である。これは昔から言われてきたことで今でも変わらない。いやむしろこの10年間でもっと大事になってきたのではないだろうか。では取捨選択をする時に、どうやって良い・悪い、価値がある・価値がない、自分の時間を割くべきかどうかを判断できるのだろうか?

 

これを考えてみた時にやはり大事なのはそれらのインプットをすることでどのようなアウトプットをしたいのかをしっかり考えてみることだ。アウトプットするためのインプットという風に常に注意してみると、非常に取捨選択がしやすくなるはずだ。 それはアウトプットの方針がしっかり決まっている場合に限る。方針を決めるためにはまずなぜアウトプットが重要なのかを考えなければならない

 

 

なんで自分のアウトプットに価値を感じられない?

 

そもそもアウトプットというのは、自分の既に知っている情報を時間をかけてまとめて外に出す作業だから、一見効率悪そうに思えてしまうのだ。なので、まとめてアウトプットするのは時間がもったいないと考え、さらにその時間を使うんだったらインプットに時間を割きたいと考えてしまう。そもそも、自分がアウトプットしたところで、誰が読んだり聞いたりしてくれるのだろうかと考えると、いよいよ自分のアウトプットに価値がないように思えてきてしまう。これが根底にある、普遍的なトラップだと思う。つまり目先の損得で考えると、インプットをする方が圧倒的に価値があるような気がしてしまうのだ。

 

自分の行なったアウトプットには価値を見いだせない。だからこそ、アウトプットはしたくない。アウトプットは正直言って誰でも面倒くさいのだ。散りばめられた情報を頭の中で整理して、自分の言葉でまとめてアウトプットするということは、非常にエネルギーを使う作業である。自分にとって当たり前だと思うことも、他人にとっては新鮮な場合だってあるから、意識の外にあるものを丁寧に相手に説明する。それはめんどくさい。時間の無駄だ。しかも下手なアウトプットをすると、いろいろな方面から叩かれるような事態にもなってしまうことがある。これまためんどくさい。

 

研究者にとっても、論文を書くということは最も大切なアウトプットであることは間違いない。とはいえ論文を書くということを好きな研究者が一体世の中にどれだけいるのか?おそらく全体の1割未満という気がする。大事だと知っていてもめんどくさいし、大変なのだ。時間を割いた割に合わない気がするのだ。

 

じゃあやっぱりアウトプットはしなくていいのか。・・・確かに面倒くさいのだが、アウトプットにはやる価値があるようなのは、 多くの成功者を見ていると間違いないと言っていいだろう。じゃあ、自分のアウトプットに価値が見いだせず、 成功者のアウトプットは価値があるように感じるのは何故だろうか。いったいどこが違うのだろうか。ここの違いを知ることが、スッキリする鍵になりそうだ。

 

 

・・なんでだろう?よく考えてみよう。

 

僕なりの答えとしては、以下だ。例えば今日僕と成功者が似たようなアウトプットをしたとしよう。すると、「普段から積極的にアウトプットをしていない自分したアウトプットの価値」と「普段からアウトプットをしていて影響力がある成功者のアウトプットの価値」は全然違うことがわかる。たとえ言ってることが同じでも影響力が全然違う。すなわち価値が違うのだ。

 

 

何がアウトプットの価値を決めている?

 

ここで大事なのは、まず前提として、「これまでの過去にアウトプットの積み重ねが十分にあったかどうか」が「今日この時点でのアウトプットの価値」を大きく決めていることがわかる。

 

おいおいそりゃ当たり前だろと思った方、正解である。

 

ではもう少し深く考えてみよう。

 

 

影響力があるかどうかというのは大事のようだ。これはユーチューバーの登録数、 インスタや Twitter のフォロワー数が大事と言ったことと全く同じである。知名度がある人が発信するからこそ価値があるように思うのだ。これは至極妥当なことで、直感的に正しい。 すでに社会的にある程度成功している人の発言や行動は重みがあることが多いし、世の中すべての人のアウトプットを公平に評価している時間など到底ない。だからこそ、信用できそうな人のアウトプットを受け止めたほうが、インプットする側としては楽なのだ。情報の質というよりかは、その情報を発信する人の信用があるかどうかという前提で判断してしまう。これが世界の大多数で行われているインプット取捨選択方法だろう。

 

では影響力の大小はどうやって決まるのか。これはアウトプットがどれだけ評価されてきたかということであろう。ようやっと話の核心に辿り着いた感じがあるが、このアウトプットがどれだけ評価されるかというのは、実力もある程度大事なのだか、かなりのところ確率論で決定されていると言っていい。考えてもみて欲しい。同じようなアウトプットをするにしても、タイミング次第で全然反響がなかったり、全く意図せずして発信したことが大きく反響を産むことだってある。これは SNSで普段なにか発信している人は分かるのではないだろうか。要はバズると言う感覚である。

 

自分ではどうしようもない不確定要素が多すぎるのだ。運が良ければたまたま自分が発信した情報が拡散されてさらにそれを拡散してくれてという風に連鎖反応的に成功することがごくまれにある。これは するかどうか決める人がその瞬間にどう受け止めたかその人のその時の気分などにも影響されているので、要はどんな条件でバズるのかというのは誰にも分からない。こんなことを言ってしまっては身も蓋もないのだが、要は運次第なのである。まずはこの事実を受け止めることが大事

 

そうすると次の事実が見えてくる。時々バズることで自分の影響力が飛躍的に上がる。バズらせるためには、常に確率論に振り回されながら、いつ誰が取り上げてくれるかも分からないまま、淡々とアウトプットをしていくしかないのだ。 アウトプットの積み重ねというよりかは、どれだけ辛抱強く、気長に、芽が出るかどうかすらも分からない種に水をやり続けられるかどうか。もちろんどんだけ辛抱強く水をやり続けても芽が出ないことだってたくさんあるのだ。だから成功した人のそれぞれの細かいストーリー成功体験談などを聞いて参考にしようというのはあまりにも無謀なのである。

 

とはいえ、もう一つ抜け道があって、自分のするアウトプットを、すでに影響力が十分にある人を通して、世に発信するということも可能だ。これはステルスマーケティングのようなものだったり、もっと昔からある例で言えば、自分が書いた本に、著名な人から 太鼓判を押してもらう帯をつける、といった具合だ。ここはある程度戦略的にできるのではないだろうか。このアプローチを取ることで、 多少なりともバズる確率を上げることはできそうである。

 

こんなことを研究の世界でやっている人は、極めて稀だと思うがいなくはなさそうだ。実際、やっている人が居たらなんとなく卑怯な感じがしてむかつく。むしろ、有名な人から太鼓判を押してもらうというのは、どちらかと言うと自分のがんばりや誠実さ、人となりを認められて、その有名な人が勝手に推薦してくれるということがほとんどだろう。 

 

 

まとめ

 

結局、自分のアウトプットの価値を高めるにはどこかでバズる確率論とその確率を少しでもあげる他力本願と言う、何とも情けないところまで話が来てしまった。 ごめんちゃい。とはいえ自分のアウトプットの質が高ければ、バズる確率だって確実に上がる。逆に、 アウトプットの質が低ければいつまでたってもバズらない。個々の努力は抜かりなくしていかなければいけないのだ。暖簾に腕押し、糠に釘といった努力は終わりがないの。

 

そもそものこの話のスタート地点はアウトプットとインプットのバランスをどうするかという話だ(覚えていただろうか。僕は忘れていた)。そのためにアウトプットの重要性を深く考えてみた。

 

ここでわかったのは、アウトプットの価値を重要視することができないのは当然のことで、今現在、自分がするアウトプットの価値が低いとわかっているからだ。「今現在価値のないアウトプットをするということの積み重ね自体が、将来のアウトプットの価値を高めるための投資をしている」ということに気づくのが難しい。分かったとしても、将来どうなるのか分からないということで、いまいちやる気が出ないのではないだろうか

ちなみに僕もアウトプット習慣化しようと何度も試みているが、未だに完全にマスターしたとは思えない。習慣化しようと試みている間は毎日やるのだが、やはりそのうち飽きが来るのか、気づいたらやらない期間が増えていってしまう。やっぱり将来の価値に投資している自覚が足らんのでしょうね。

 

究極的には、今の自分のアウトプットの価値を考えずに、如何にルーティンワークでアウトプットを出し続けるか、またそのアウトプットの質を高める工夫をし続けられるかというのが大事なのだろう。何も考えず時間を決めて、とにかく毎日アウトプットする習慣を手に入れるというのがスタート地点に立てるかどうかという境目になるのではないだろうか


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コメント: 3
  • #1

    M (水曜日, 22 4月 2020 22:08)

    研究の進め方の参考や論文を書くヒントとして定期的に読まさせて頂いています。
    一つ質問があるのですが、博士課程で日本ではなく海外に行くという選択は研究職を考える上でどれ程有益なのでしょうか? 
    因みに、自分は ecohydrology の研究をしています。

  • #2

    Masahiro Ryo (木曜日, 23 4月 2020 03:45)

    Mさん、コメントありがとうございます。良い疑問ですね。
    まず、博士課程進学前にそれを考えること自体、視野が広いのでステキです。そして、なんとなくMさんは海外に出たいのでは?と想像します。僕としては「広い世界に出て、高いレベルでチャレンジしてみたいと思うならGO」だと思います。有益かどうかは関係なく、後悔しないために、です。

    とはいえ、研究職も大学教員・研究機関・企業R&Dなど多様ですし、将来働きたいのは日本か海外か、によっても戦略はおそらく違いますよね。学振DCをとって一年だけ海外、とかもいけますので。

    世の中、色々研究者になるためのHow to本もいくつも出ていますから、それをまず読んでみると良いです。フェデリコ・ロージの科学者として生き残る方法なんて読んでみたらどうでしょう。

  • #3

    M (木曜日, 23 4月 2020 22:41)

    お忙しい中、わざわざ返信をして頂きありがとうございます。 
     貴重な情報を提供して頂き本当に感謝しています。フェデリコ・ロージさんの本は先程メルカリで購入しました。早速読ませて頂きます。
     因みに、ecohydrology を研究しており、アメリカやヨーロッパに行ってみたいと考えています。まだ学部4年なので、中々先の話なのですが笑